過去に何度も「怒り」で失敗した私が、それをコントロールし克服した”1勝1敗の法則 ”

 「怒り」これは人類がまだ文明を持つはるか以前から持ち続けている、心の動きの重要な一要素だ。狩猟によって糧を得ていた時代、恐怖と怒りは間違いなく生きるために重要だった。巨大な獲物が目の前に現れた。不意をつかれた仲間の一人が獲物の牙にやられてしまう。この一つ間違えば命を失うという極限状態で、彼らに対する恐怖と仲間が犠牲になったことに対する怒りが手のひらの発汗を促した。それは手にもった槍のグリップを確かなものにし、正確な投てきの為の重要な役割を果たした。
 

 隣の部族といさかいが起きた。仲間が次々やられていく。圧倒的な敵の数に恐怖し、敗走を余儀なくされ怒りに震える中、山を越えて逃げる時ここでもまた、手のひらの適度な汗が掴む石との摩擦率をあげて、体を持ち上げる為に役立った。怒りが心拍数をあげ、緊急事態用の筋肉の活動を促し、普段なら登れないような崖を超えることができた。

 恐怖や怒りは精神の動きにすぎないが、それは身体にはっきりと影響する。もう私達は狩猟で糧を得なくても済むが、怒りが身体に影響を及ぼすという基本的なシステムは変わらず持っている。そして、かつては危機を脱するためのエンジンであった怒りの感情は、文明化されすべてにおいて快適な現代にあっては、逆に私達を時に窮地に追い込むネガティブな存在となった。

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 私自身、この怒りというものを抑えることができずに何度も危険を呼び込んだ。

 

 以前勤めていた会社に、全くやる気がなく能力も低い一人の上司がいた。彼は社長とつながりが強く、普段からミスを繰り返していたが、お咎めを全く受けない立場にいた。彼がミスを繰り返す度に、部下が尻拭いをさせられていたが、皆あきらめきって彼の尻拭いも業務の一つと割りきって勤務していた。まだ怒りのコントロールができていなかった私は、この状況に毎日苛立ちを募らせ、そしてある日、その上司のミスによって、部下の一人がクライアントから激しく叱責されているのを見るに至って、とうとう爆発してしまった。ドラマやマンガなら、私の行為は同僚達の共感を得て、その無能な上司を追い出してハッピーエンド・・・となるだろうが、現実はそう甘くはない。失職の恐怖は同僚達に沈黙の道を選ばせた。その場の空気は凍りつき、大声を出して浮きまくった私の怒りは行き場を失い、振り上げた拳のエネルギーは足へと向かった。私はスティールの机の引き出しに思い切りトーキックを食らわし、そのままカバンを抱えてその会社を飛び出した。
 後から考えれば、カバンを持ち出すだけの冷静さがあったのが不思議なくらいだ。そのくらい私の頭はコントロール不能の状態になっていた。上司に対する怒り、上司を野放しにし続けた社長に対する怒り、正しいことを言ったのに、全く共感の意志を示さなかった同僚達への怒り・・・。会社を出て少し行った場所にある小さな公園のブランコに座って、ジンジンするつま先を見つめながら頭を抱えた。やっちまった・・・。

 元々短気だった私は、以前からこの性格が治らないものかと悩んではいた。結局いつも怒りで投げたボールが自分のほうに跳ね返ってくるからだ。激しいアクションを伴わない「静かな怒り」でも、結局自分をイライラさせて不快な時間が持続するわけだから、理性が効いている時にははっきりと「無駄なことをしている」という認識があるのだが、怒りのスイッチが入ってしまうと、どうしても抜け出せなくなる。
 
 半分おまじないだとわかっていながら、「怒りっぽいのはカルシウム不足だから、牛乳を飲むといい」という言葉にすがって、毎日結構な量を飲んだ事もあった。骨は若干強くなったかもしれないが、私の中の瞬間湯沸器の機能は全く落ちる様子がない。「禅」も試した。仏教は怒りのコントロールに持って来いの宗教だ。姿勢を正し、静かに瞑想し、心の中を「空」にする。「考えない」という状態なら怒りがわきようがない。確かにそうなのだが、座禅が終了して家に帰るまでの間にあっという間に俗化して、元の木阿弥となる。さらに源流に遡り、上座部仏教の瞑想法というのも試してみたが、これをきちんとやろうとすると日本のようにセカセカと時間に追われる環境ではとても実践できないもので、のんびりとした瞑想そのものにイライラを覚えて断念した。

 私の怒りはどうやってもコントロールできないのか・・・。父親は怒りっぽく、年中苦虫を噛み潰したような顔をしていた。彼のDNAと、幼い頃彼の影響下にあった環境が私の性格を作り上げてしまったのなら、もうこの苦しみから抜け出すことはできないのかもしれない・・ 私はあきらめかけていた。
 人間というのは不思議なもので、必死に情報を求めて血眼になっている時には全く考えもつかないことが、あきらめの境地で、ふと力が抜けた瞬間にポンと思い浮かぶものだ。しかもそれは、特にこれだというほどの強烈なアンサーではなく、バカバカしいほどその辺に転がっている解答だった。


 長年私を苦しめた怒りが、簡単な発想法を間に挟むことで、見事におさまる。その発想法とは・・・・

 

 ある日は私はいつものように何気なくネットをうろついていた。あるサイトで血管についてのトピックを読んだ時、はっとした。


”頭に血がのぼる”というのは怒りの感情で脳の働きが活発になり、脳に血が集まることからできた言葉です。怒りの感情で脳の活動が激しくなり、結果として血の巡りを早くする必要が出ます。イライラする分だけ脳に血を送るために血管は収縮して細くなり、血を素早く送ろうとします。要するに高血圧の状態です。怒りがたまってしまって常にイライラしていると、この状態が日常的に続くことになりますよ

 

 カッとなって顔がカーっと赤くなるのを感じた人はいるだろう。特にまだ理性で制御できない子供時代には、ちょっとしたことで頭に血が上り、唇が震え、こみ上げる涙でしゃくりあげて、言葉が上手く出ないというような経験をした人もいるかもしれない。血管の若い子供のうちはどうということもないが、歳をとってからの抑制できない怒りは、血管に強いダメージを与えるのだ。1回怒ればその時、まちがいなく自分の血管を痛めつけている・・・。その事実が何を意味するのか。冷静な時の自分は考えることができた。

 

○怒りを感じている時、あなた自身は怒りの対象を攻撃せず、自分を攻撃している。

 私が無能な上司や同調してくれなかった仕事仲間にたいして、怒りを感じて喚き散らしていた時、自分では彼らに向かって「攻撃」をしている気になっていた。お前らが悪いのだから、この私の怒りでダメージを受けろ!という叫びだ。しかし実際はと言うと、他人の心に鈍感な上司は当然何も感じず、仕事仲間は現場が荒れるだけだからやめてくれと迷惑がっているだけで、私の怒りなどぶつかってさえいないのだ。そして、あろうことか私の怒りは、私自身の血管を傷めつけ、胃を荒らし、すべてが終わった後には後悔に打ちひしがれ、血管の老化した失業者を産んだだけだったのだ。
 怒りの感情は相手には届かず、ただ自分を傷めつけるだけという虚しすぎる結論だ。暴力をふるえば、少なからず相手にダメージは与えられるが、ペナルティを考えるとさらにバカバカしい。怒りの感情は、自分にとって本当に何のメリットもないのだ。

 

○怒りは発散すべき は半分正解 半分まちがい。

 怒りの感情は発散したほうがいい という考え方がある。怒りの感情を体に溜め込むというのは、怒っていないのではなく、怒りを体の中で燃やしている行為だから、それは外に出したほうがいいという意味だと思うが、怒りそのものを外に出しても結果的にそれは自分の体に返ってきてしまうので、本当の意味での発散ではない。怒りを体から切り離し、怒りのない状態にして初めて発散と言える。怒っている心の状態を解消するために、運動や好きなことをするという意味の発散なら正しい。それでも恐らく怒りの感情は抱えたままだろうが、心に喜びが満ちてくれば、怒りは徐々に薄れていくからだ。怒りは瞬間的に心を支配するが、強い状態での持続力は低い。時間が経って怒りの感情が鈍くなってくれば、楽しいことをやっているうちに溶けてしまう。それを促すための別の行為での発散は正しい対処と言えるだろう。

 

○人間は欲深い動物。それを利用する。

 私が色々試行錯誤し、なんとか怒りを消す方法はないかと考えた末、最終的にこれしかないなと思っている方法がある。人間の欲、我欲を利用する方法だ。人間は誰しも我欲に支配されている。どんなに素晴らしい人間も、最終的な判断には自分が得をするか、という基準が絶対に入り込むものだ。利他的な活動をする人はたくさんいるが、そこにも、「利他的な行動をしている自分」の姿に満足を得る自分が、結果として得をしているという側面が必ずある。「あの人の為なら死ねる」というのは、究極の自己愛なのだ。
 さきほどの血管の話で分かる通り、怒りの感情は何一つ自分に対するご褒美がない。怒りの相手は何も感じず、自分ばかりが傷めつけられる。これほどくだらない行為があるだろうか。怒ることで、左頬にビンタをされた相手に間髪入れずに右頬をビンタされているような話だ。怒りの感情が湧いた瞬間に、相手に2敗している。ということだ。怒りを押さえ込めれば、1勝1敗のイーブン。初めに相手に怒りの原因を作られている以上、自分に残されているのは引き分けか、負けだ。ならば引き分けをねらったほうが、自分にとって得に決まっている、というわけだ。

 なんだそんな事かと思ったかもしれないが、怒りがわく瞬間というのは突発的で、理性をはさみ込ませるのが非常に難しいものだ。私のように「暴発型」の人間でなくても、体の中に怒りの種火を抱えてしまう人はいるだろう(日本人はこのタイプがほとんどだろう)種火が灯る前に、それをフッと消せる方法があれば、生活のクオリティが向上する。怒りに支配される時間がゼロになるのだから。

 

もし怒りをコントロールできない人がいたら、ぜひ実践してみて欲しい。